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川鰭市郎先生をホストに、東京女子医大元教授の仁志田博司先生と公開対談をして頂きました。
まさに珠玉の文言が輝いています。

 

お二人の同意を得て、全文を掲載致します。

障がい児者医療、

そして「あや」(つながるということ)について(3/4)

 

(仁志田先生)

都竹さんは行夢員、夢をみる公務員ということで、僕は今までたくさんの公務員の方と接してきたんですけれども夢をみる公務員というのはたぶんほんの一部ですね。今日は本当に私、感動しました。そういう人がいっぱいいればですね、まさに先生の質問されたこと、在宅ですね、在宅でみるということはできたら一番いいですよね。お父さんとお母さんとお兄ちゃんとおじいちゃん、家族みんないるわけですよね。ただ、24時間365日というのはこれはたぶん恋愛してるあつあつの方も24時間365日となるとね、いくら愛情があっても続かないんですよね。それでそれをどうしたらいいか。行政でいろいろお話されましたけれど、ちょっと自分の話で恐縮なんですけれども。今日実はですねもう一つここに来た理由があって、自分の宣伝にきたんですね。“赤ちゃんの心と出会う”って本を先月出したんですけれども、この本を出した理由っていうのがですね。この本の最終章に(書いてある)あおぞら共和国っていうのを私達がつくったんですけれどもそれの支援なんですね。それはまさに、あの都竹さんのおっしゃったレスパイトなんですね。24時間365日どんなに愛情があって熱心でもやっぱりできないから、やはりひと月の内に何日、あるいは一年のうち何回かですね。私たち医療者とかボランティアの方とかですね、行ってひとときのくつろぎのレスパイトですからね。そういうことがいかに大切かということは実際やってみないとわからないですね。私が所属しているのは難病ネットワークというところで、難病の子どもと母親をサポートするネットワークですね。ほんとに全国で一生懸命やっている人はたくさんいるんですね、それをサポートするために立ち上がったんです。

 

(川鰭先生)

在宅で子どもさんを一生懸命みているお母さんってその次の赤ちゃんをうむとき、非常にためらわれるんです。24時間ずっとみている子どもを誰に頼んだらいいのか。うちの病院は周産期センターがあって重身病棟があるからできるんじゃないかっていうことで“びいあぱるケア”というのを始めてますね。“びいあぱる”っていうのはペンパルと一緒でお友達になるということです。障がい者も集ってお友達になりましょう、と。で、うまれてくる赤ちゃんとお母さんと上の子どもさんとを一部屋におきましょう、と。重身施設と周産期センターを併設されている病院って日本にうち以外ほとんどないんですね。だからうちがやらなくてどうするのっていう話になったんですけど、これがですね一部のみなさんから猛烈な反発を受けたんですよ。なんかあった時にどうするのか、責任がもてるのかどうのこうの。そういう話が会議室場ででまして、この話を聞いた時に私の堪忍袋の緒がぷつんと音をたててきれましてね。だって在宅でみてるってことは、それはお母さん、素人ですよ、看護師の免許も医師の免許ももってるわきゃない。その人がみれるものを医療者としての資格をもっている人がみれません?そりゃはずかしくないか?やるんだからとにかくやろう、やりながら軌道修正してやっていけばいいじゃないか。ということで、今まで何人か利用してもらっています。お母さんたち、まだ妊娠していないんだけどそれを聞いてすごく安心した、嬉しかったって言ってらっしゃるお母さんたちもいらっしゃるし。

 

(仁志田先生)

先生の施設は実際に(はまだ)拝見しておりませんけれど非常にユニークで大切なんですね。さきほど縦の糸と横の糸っていう話がちょっとでたと思うんですけどね。受胎してお腹の中の胎児が生まれて新生児になってそれで障がい者になったとしてもやっぱりその人が青年になって大人になるわけで、縦の糸がありますね。そうするとそれを支えるいろんな横の糸がある。縦と横とつながりがない限りは一人の職種、一人の家族では絶対重身の方はみれないわけですね。縦の糸と横の糸をこう編むのを“あや”というそうですね。“あや”というのはそういうことです。まさに人生の“あや”みたいですね。先生のところはまさにその“あや”を織っているところなんですね。それを誰かが何やってるのっていうと、都竹さんの話にちょっとあった障がい者っていうのを知らないから、みてないからなんですね。

僕も40年新生児やりながらですね、NICUで大学で、きったはったとか研究とかそういうことやってるときには編めなかったですね。だからそれで退職してもう8年目になりますが、退職してから難病ネットワークに入ってですね、ほんとに思ったんです。難病ネットワークに入ってレスパイトのキャンプに行って最初の日に感動しました。なにが感動したか。家族がごくさりげなく重症の子をみてるわけですね。それから周りにいる学生さんとか看護婦さんとかもう二十何年やってますからリピーターが多いんですね。さりげなくですね、重身の子をみてるんですね。ところが40年新生児やってもですね、なんかこうどきどきしておどおどして。少し慣れてきましたけど。結局なれてない感じですね。

重身の施設を日本で一番最初につくったびわこ学園ありますね、近江の。そこの先生が“この子らを世の光に”といった本をご存じですか?この子らにじゃないです。この子達がかわいそうだから“この子らに光を”ではなくてこの子がいるから、みんながいるから、難病キャンプで経験したようにみんながごく普通に、都竹さんがおっしゃったように当たり前なんです。みんな同じ人間ですね。たまたま障がいがあったとしても、それがじゃあなんなの。そんな人たちがいてみんながいるからこそ、私達がその人と一緒に生活できるこういうすばらしい岐阜県に、そういう風に思う、“この子らを岐阜県の光に”ってね。そういう気持ちになればですね。

 

(川鰭先生)

近江学園をつくられた糸賀先生、みなさんご存じかどうかわからないですけどわりと若くしてお亡くなりになられるんですけど、お亡くなりになられる直前に講演されてるんですよね講義といいますか。それが本におこされてまして、こないだテレビに出たときにそれを見た方が送ってくださって読ませてもらったんですけど“障がい者というのは赤子のようなものである”と。“赤ちゃんと同じだ”ということをおっしゃった。だから“障がいをもった人と思って接するのではない、この子たちに光があたるってこと、この子たちに光をあてるのではなくこの子たちが光になることが大事だ”と。だから“赤ちゃんと思って接していけばその障がいをもっている人たちとなんのわだかまりもなくいろんなことができる”と。そして赤ちゃんがいろんなことができるようになっていく過程ってすごくうれしいでしょ?同じようにそういう人たちもこういう障がいがあってできなかったのにここまでできるようになったってことで喜びを感じてもらえる。ま、そういうあとがきがあってですね、ぼくも非常に感銘をうけたんですよね。

だからそういうところなんかの話をみてみるとやっぱり我々が何をしなきゃいけないか。まさに先生がおっしゃっているようにとにかく最初はやっぱり助けること、病気を治すことに一生懸命だったですよね。だけどだんだんそれだけでいいのかっていう話になってきたというところがあるんですけれども。何年か前に、聖マリア(病院)の橋本先生が障がい者のための楽園をつくるんだという構想を、残念だけど実現はしなかったんですけど。

 

(仁志田先生)

今、がんばってますよ。

 

(川鰭先生)

まだ実現していないですけどすばらしいお話で。入所していてもおうちの人がきたらその時は家族で一緒にも過ごせるような場所をつくってあってその周りにもすごく自然がいっぱいあって、と。そういう構想をねっておられたんですね。で、もう実現する直前までいってた時期もあったんですけどなかなか資金のことやいろんなことでうまくいかなくてということがあって、ということなんですけど。もうそれなんとか。

 

(仁志田先生)

そうですね。さきほど都竹さんの基調講演の中で医療者の中に質問すると重症の子どもなんかがみれないって方が9割以上でしたっけ?それはよくわかるんですね、みんな忙しい診療とか。ただですね、またこれも私達の知り合いなんですけどNICUで働いた人がですね、やがて開業してですね。一段落した時にですね。自分達が今までみてきた重症の子たちはどうなってるのかというね、そういう人達をサポートしようという気になってですね。実はNICU、OBの会っていうのがあって、それが名前が変わって“赤ちゃん成育ネットワーク”って。今、250人くらいいるんです。その人達とですね、その自分の開業した地域のNICUが中心ですけれども在宅のケアをやっている。それで何人かの先生は施設もつくってます。通所施設ですけれども。ですからだんだんそういう先生方も増えてきたとは感じてるんですけどね。

 

(川鰭先生)

あの、岐阜県で在宅うけますよっていってるの、あれは開業医さんを調べられた?あぁそうですか。あの、私産科医ですけれども障がい者病棟に患者さん10人ばっかしもってます。障がい者病棟の患者さんもつようになったときに、一番なんか嫌だなって思ったことは障がい者病棟で働く看護スタッフのみなさんが一般病棟で働いているスタッフに対して漠然としたコンプレックスを感じていると思ったんですよ。根拠はなんなのかわかりません。だけどこの人達を元気にさせようと思っていたらある入院患者さんがですね、障がい児といいますかもう僕の手を離れてキャリーオーバーして平均年齢は40後半なんですよね。だけど知能発達は障がいがあったりするから子供のような感じなんだけれども。ひとりの女性の患者さんが毎日ファッション雑誌をくいいるようにみてるんですよ。だけど病棟の中で着ているのは、脱ぎ着せしやすいからかわからないけれどえりが伸びたようなトレーナーとかジャージーばっかり着てるわけですよね。色合いもなんか変だなと思う時もあるんだけれども、あるものを着せている、と。で、その患者さんに(雑誌の)その服着てみたいのって聞いたら、着てみたいって。よく考えたらですね、ペットの洋服、そこらじゅうで売ってるじゃないですか。障がい者の洋服、なんで売ってないの。それは障がいの形があまりにも様々だからできないということだと思うんですけれども、ある程度ならできるんじゃないかなって。いいこと考えついたなって。これからファッションの世界をしょって立つ学生さんたち、服飾専門学校の学生さん達に課題として障がい者の服をデザインしてつくってみませんか、と。これをやったんですね。実際にOKしてもらって、洋服ができて患者さんたちは大喜び。学生さん達も達成感を感じてくれた。それきっかけにしてね、病棟の雰囲気かわるんです。病棟のみんながすっごく明るくなりました。で、それから着てるお洋服もぱっと着せたときに、あ、この色じゃなくてこっちというふうになってきた。やっぱり意識の問題って大きいんですよね。だからできますとかできませんとか、それは無理ですとかいう前にやってみないと動かないもんですよ。

たとえば今回はでてきていないですけど18トリソミーで仁志田先生に教えてもらったんですよね。18トリソミーで8歳、9歳ですごく元気にしている子がいると。

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